「調性には性格がある」で調性格論について書きました。絶対的な音の高さから来るものではなく、ハ長調からの変化から始まる相対的な調の持つ性格なのではないかという事を書きました。確かに調性にはある種の性格があるように思いますが、これが本になり学問になってしまうと、変なことが起こったりします。
学問になってしまうとそれを勉強しなければならなくなり、知っているか知らないか、またそれを生かしているかいないかが大切になってしまいます。例えばレッスンで「君の歌はEs durの音楽ではないね。調性格論は読んだかね?しっかり勉強して、調性格論を踏まえた演奏をしなければならないよ。」といった使われ方がよく起こってきます。こうなってしまうと、調性格論が音楽の理解を助けてくれたり、とりわけイメージを広げるために生かされるべきなのに、最初からイメージを決めつけてしまい、窮屈な自由さのない解釈にたどり着くこともあります。
音楽を考える時には絶対に自由が必要です。調性格に限らず、理論や常識が音楽を窮屈にするケースはとても多いし、その窮屈さこそがアカデミックな音楽解釈だと主張されることも多いのですが、出来ることなら色々な説の本来の意味を知り、そこから自由になることで逆にその説が生きてくるような音楽作りをしたいものです。
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