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自分が良いと思う音楽と評価が高い音楽~音楽について57

自分の判断と他人の判断

 芸術に携わる人は特に、自分で良いと思うもの評価の高いものとの間で色々と思い悩むことも多いと思います。もしも私がポピュラー音楽の世界にいたなら、売れる作品を作ることに全力を傾けなければ遅かれ早かれ音楽の世界にとどまることは出来なくなるでしょう。そのうちに本当に良いものと売れるものの感覚がおかしくなって、売れるものが良いものだと思い込んでしまうことにもなってしまうかもしれません。これは音楽だけではなく、あらゆるジャンルであります。他の仕事でも収益が上がれば良いとされ、上がらなければ良くないとなる。政治もここから逃れられません。支持率が高いと良いとされ、低いと悪いとされます。ヒトラーも当時とても支持が高かったのです。独裁者の代表のように言われますが、民主的な中から生まれたのです。

自分で判断することに慣れていない

 価値の判断についてもう一つ問題があります。日本の教育の特徴とも関係しますが、私たちは自分が良いと思うかどうかよりも、先生が良いとするかどうかをより重要に物事を判断するように育てられてきたところがあります。出題者の意図を図ることなしに、学校のテストをクリアしていくことは出来ません。少なからずこれに反抗しながら成長していくものですが、完全に抗って、すべて自分でしっかり考えるように生きていくことはとても難しい環境にあります。

 このように、自分で判断することになれていない上に、自分の判断と他の判断にズレがあることも多く、どこに向かって進んでいったら良いのか分からなくなることも多々あると思います。こうなるとできるだけ評価される演奏を目指して頑張っていくことになりがちですが、今回は違う提案をしたいと思います。

感動する演奏

 自分が感動する、ドキドキする演奏ができれば、それは絶対に良い演奏です。演奏には流行があります。昔良いとされていたスタイルが、今だと良いとされないといったことがあります。流行に合わなければ評価されないことになってしまいますが、演奏の善し悪しは流行とは別ですし、すべて流行を目指して演奏されてしまうと、みんな同じような演奏になってしまい、音楽はとてもつまらないものになってしまいます。次の世代の音楽を作っていくのは流行を壊していける人たちです。

 しかし、自分が感動するかどうかは確実です。自分で判断するということではなく、感動するかをしっかり捉えるということです。思い込みというのがあって、自分で判断するときにもこの思い込みが邪魔します。例えば正しいリズムで、正しい音程で歌うべきだという当然のようなことでも、実際は違います。正しいリズムで常に演奏されるわけではないというのは割合納得してもらえるものだと思いますが、音程も表現のためにずらされることが多々あります。もちろんでたらめでも良いわけではありませんので、どうなれば良い、どうなってはいけないかという判断は実はとても難しいものです。しかし、感動感のある演奏は常に良いというところに一つの基準を持っていると、迷わずに判断するきっかけになります。細かい判断はとても難しく、先生や信頼できる人の意見を参考にすることも大切ですが、その結果自分が感動できるような演奏になるかが一番確実です。

コンクールでも偏りがあることがある

 あるコンクールを聞きに行ったときに、メゾソプラノとコロラトゥーラソプラノの2人がとても印象に残ったときがありました。結果はコロの方は優勝されたのですが、メゾの方は入賞すらありませんでした。入賞者の顔ぶれはすべて軽い声の人ばかりで、少し重い声の人はすべて外されていました。このようなゆがみは頻繁にあります。コンクールであっても常に正しく評価されるわけではありません。

自分の感覚に自信を持って

 それでも自分が感動したからといって、本当にそれが良いのかどうかという疑問は残るかもしれません。はっきりとした理由は分かりませんが、今までの音楽人生で、感動を感じたもので後に間違っていたと思ったことはありませんし、感動を感じる演奏は、しっかりと聞いてもらえれば絶対に伝わります。芸術を支えているものは結局この感動の伝播なのではないかと思います。ピカソであれ、ベルクであれ、この感動の伝播抜きに作品の素晴らしさを感じることはありません。 

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