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合唱のヴィブラートを考える2 ~声楽曲21

 以前、合唱ではよくノンヴィブラートで歌うように指示されることがあることについて書きました。声にとってヴィブラートは喉を守る性質もあり、良い発声と良いヴィブラートはとてもつながりが深いので、否定しすぎると弊害もあります。しかし、合唱の世界ではヴィブラートは嫌われているのも事実です。今回はもう少し別の観点から考えてみます。

合唱のヴィブラートを考える ~声楽曲14

 本来ヴィブラートは安定した発声器官の中で、声帯が堅くなりすぎず柔らかく振動するときに起こる規則的な音程の揺れです。しかし、このような音程の揺れは別の状態でも起こります。発声器官がとても不安定になり、その中で動いている声帯も不規則にコントロールできない揺れを起こすことがあります。ヴィブラートではなく、不安定な声ですが、声帯が揺れて音程が変わることでいえば同じ現象です。目の敵にされているヴィブラートは本来のヴィブラートではなく、この発声のゆがみを指すことが多いように思います。この手の不安定な声の揺れは明らかに発声のゆがみから来ます。声帯周辺の筋肉が弱かったり、堅すぎたり、体が上手く使えずに喉の安定を声帯周辺の筋肉にのみ頼りすぎていたりなど原因はそれぞれですが、体の不調もあり得るし、練習不足かもしれないし、偏った練習による事もあります。

 この不自然な音の揺れに対してどのように対処していくかは後で書こうと思いますが、まず、良いヴィブラートも不自然な音揺れもまとめてヴィブラートとし、それらがすべて悪いと言われることには違和感を感じます。例えば頭声にも良い状態と悪い状態はありますが、頭声はだめだと言われることはありません。同じように胸声も良い状態と悪い状態があります。これはごくまれにですが、胸声はだめだと言われることはあるようです。良い頭声も良い胸声も良いヴィブラートもマルで、悪い頭声、悪い胸声、悪いヴィブラートはバツという方が納得いくかと思いますが。

 もう一つ、きれいなヴィブラートだけれどもだめだということを考えてみます。この場合は音程の揺れが広すぎることが考えられます。音楽表現としてこの曲のこの部分はもう少し音程の幅が狭いかもしくはほとんど音程が揺れないように歌うべきだという事は当然あります。ヴィブラートは感情の揺れと呼応します。感情の揺れが強いときにはヴィブラートの揺れの幅も広くなり、それがなくなっていくと揺れも小さくなり、全く感情の揺れがなくなってしまったらヴィブラートも止まります。例えば深い悲しみの音楽があるとします。どうしようもない悲しみに対して、抗うことも出来なかったとしても、自分の気持ちがそれをすんなりと受け入れることはとても難しく、自分の中で処理しきれない想いと現実の中で必死に戦いながら感情は揺れていきます。そしてそのうちに戦えなくなるときが来て、抜け殻のように現実を受け入れていくことがあるかもしれません。こうなるともう感情は揺れません。ヴィブラートがなくなった世界です。音楽に合わせてヴィブラートも変化すべきで、一律にすべて良いとかすべてだめだとかいう物ではないように思います。

 さらに良いヴィブラートが出来ると、コントロールも出来ます。幅を広くすることも狭くすることも、もちろんなくすことも出来ます。しかし、常にヴィブラート無しで歌うということは自然な揺れをいつも止めなければならないので、声帯に負荷がかかります。出来ないわけではないのですが、一律に常にというのはやり過ぎではないでしょうか?合唱はハーモニーが命だからともよく言われますが、少し合唱に対して失礼な気がします。合唱にはもっともっと色々な力があります。ハーモニーだけではありません。芸術はその作品に触れることによって、演奏する人も聴く人もその人の人生が変化することに意味があるように思います。今まで感じたことのない深い感情を体験できたり、ワクワクしたり、明日も生きていける力をもらったり、頭の中でうごめいていたごちゃごちゃした物から解放されたり、色々なことがあると思いますが、何かが変わることに大きな意味があるように思います。当然ハーモニーだけということもないし、ハーモニーのみに固執すると、本当に大事な物がなくなってしまうこともあります。

 少し長くなってしまいましたので、音揺れの対処の仕方はまた別の記事にします。