前回の劇的な音楽と絵画的な音楽を書いてから随分時間がたちましたが、少し加えていきます。この考えの元になっているのはニーチェの「悲劇の誕生」です。劇的なものはディオニュソス的、絵画的なものはアポロ的と表現してあり、ディオニュソス的なものの代表として音楽、アポロ的なものの代表として美術を取り上げ(実際は披造形芸術と造形芸術と書いてあります)、その融合からギリシア悲劇が誕生し、その後はソクラテスの知的合理主義によりこれは壊され、ワーグナーによって復活するといった内容だったと思います。
哲学に詳しい人から見ると、とんでもなく間違った読み方をしているかもしれませんが、混沌を混沌のまま音に詰め込んだものと、秩序だった形が与えられるものの対立、もしくは融合が、音楽の様々な様式を生み出すといった見方はおもしろいと思います。
ソクラテスの批判もワーグナーを讃えることも私には興味がありません。
前回は分類の話をしましたが、劇的なものの中にも絵画的なものは内在されており、逆もあり、とても多彩です。しかしそれでも分類は意味があり、演奏において、その音楽のドラマの移り変わりに主点をおいて見過ぎていると、行き詰まってしまうことがあります。そこに絵画のような、時間の流れを一瞬に閉じ込めたような調和を感じようとすると、解決策が見えてくることもあります。
劇的な音楽の例として、シューベルトの「魔王」があげられます。この曲はご存じの方が多いと思いますが、子供が高熱にうなされながら死の世界に向かう話で、その間に生と死の狭間で魔王の幻覚を見ていきます。当然自分の身内にこのようなことが起これば冷静でいられる自信はありません。シューベルトは激しい3連符の連打や、めまぐるしく変化する音楽、急激に変わる音域など色々なドラマの表現を使いますが、よく楽譜を見てみると、綿密に構成された音楽の形式(この理不尽な残酷な事実を芸術に高めようとする意思のような)も見て取れます。前者が劇的なもので、後者がその中に隠された絵画的なものと考えます。この両面を考えたときにさんざん歌われてきた「魔王」に新しい命を吹き込むことができるのかもしれません。
このような発想のもう一つのきっかけは大学の授業でした。宮沢賢治を中心とした粒来哲蔵先生の授業で、「永訣の朝」を読んだときです。これは最愛の妹とし子がなくなる直前を詩にしたものですが、先生はこれは死の直前、または直後に書かれたものでは無く、数日後のものであろうという話でした。少し時間がたたないとできないようなしっかりとした詩の形式が作られているという理由からでした。
このことが事実なのかどうかはそのときも今も変わらず、私にとってはどうでもいいことですが、この考え方はその後の音楽との対話の中では重要でした。粒来先生は残念ながら昨年亡くなりましたが、私の中では今でも生き生きと色々なことを語りかけてくださっています。
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