プロの音楽家に好きな音楽家を尋ねた時によく出てくる作曲家がいます。その人の専攻にもよりますので、いろいろな作曲家があげられるものですが、とりわけ多いのはバッハとモーツァルトです。こうなるとバッハは嫌いだとかモーツァルトは苦手などはとても言えなくなってしまい。本心ではないのに、「モーツァルトはやっぱり良いね」と言わざるを得ない雰囲気もあるかもしれません。
バッハに関しては好んで聴くかどうかは別にして、良さが分からないというのは聞いたことがないのですが、モーツァルトは本当のことを言うと良さが全く分からないと思っている人は結構多いようです。バッハの音楽はとても複雑です。少しぐらい作曲の勉強をしたからと言って書けそうにはないものばかりですが、モーツァルトはその逆、とてもシンプルなので、作曲の勉強をある程度すれば、もしかしたら書けるかもしれないと思えるような作品が多くあります。バッハに比べてモーツァルトの良さは分からないというのはこのような理由が大きいように思います。 多くのプロの音楽家が良いと言うからといってそれに合わせる必要はありません。自分で感じるままで良いと思います。
フーガに代表される複雑な多声音楽の時代が終わり、シンプルな音楽に変わっていくというのは音楽が危機を迎える時代だとも言えます。複雑だからこそ込められていた音楽の深みが無くなってしまってもおかしくはありません。そのような時代にモーツァルトは生まれました。バッハが複雑な音楽だからこそ込められたものを、モーツァルトは単純な音楽の中にそれを込められなければ、よく言われるように美しいだけでは一流の作曲家ではありません。
モーツァルトの特徴の一つに音楽の中のドラマ性があげられるように思います。映画アマデウスを見た時に、妻コンスタンツェの母親がうるさく小言を言うシーンで、その声がそのまま「魔笛」の夜の女王のアリアになったのを見て思わず大笑いしたことを覚えています。このアリアは、とても強く復讐を歌うアリアです。HiFで有名なアリアですが、逆上した女性が興奮してしゃべっている様子が、笑い声にも思える形で書かれています。
ピカソの泣く女が笑っているような顔に見えたことはないでしょうか?内戦の続いていた時代に、理不尽な苦しみの中にいて泣いている女性たちを、皮肉を込めて笑っているかのような顔に描くわけはありません。笑う顔と泣く顔は近いのですが、悲しい顔はいかにも悲しく描かなければならないという常識が強ければ、ピカソはいなかったかもしれません。このような常識のフィルターをなくして物事を見られるからこそ、真実が顔を出すように思います。
夜の女王のアリアでの作曲的な発想は難しいものではありません。♭1つのニ短調から始まり音楽が高揚して行くにつれて同じ調号の長調〔平行調〕ヘ長調に変わり、ここでHiFが出てくる有名なフレーズになります。ヒステリックな怒りの音楽が笑い声にも聞こえていくところです。このまま終わると道化になってしまいますが、またきちんとニ短調に戻って曲は終わります。ピカソと同じようにこれも決して皮肉ではないと思います。しかし、通常は常識が邪魔をしてこうは書けないでしょう。私はここに常識に邪魔されない真実の劇を感じます。
モーツァルトと言えば神童といわれるように、幼少期からピアノ、ヴァイオリン、作曲など早熟ぶりが有名です。すごいことではありますが、そのような子供はたくさんいます。この少年モーツァルトを連れて、モーツァルト家は家族であちこち旅に出ていました。もちろんモーツァルトを売り込むためです。その当時旅をするだけで大変なことだと思われますが、その中で練習し、コンサートをし、いろいろな人に会ってアピールし、想像できないような苦労も多かったと思います。しかし幼いモーツァルトだったからこそ、何の先入観もなくいろいろな人に会い、話をし、いろいろな国でいろいろな習慣や価値観を経験でき、そのことが後のモーツァルトを作っていくのに大きな意味があったように思います。シェーンブルン宮殿でマリア・テレージアの膝に乗りキスをし、マリー・アントワネットに「大きくなったら結婚してあげる」と言ったという逸話が残されていますが、もう少し大きくなってからだとそうはいかなかったでしょう。
完全に自由に音を扱える作曲の能力と、先入観無く人を見ることから作り出される劇の要素もモーツァルトのすごさの一つだと思います。しかし、みんながすごいと言うからすごい作曲家だとみる見方は、モーツァルトからは一番遠い考え方かもしれません。モーツァルトにおける劇の要素は声楽曲のみならず、あらゆる作品に生きていると思います。例えばピアノ曲、ニ短調の幻想曲を聴いてみます。ニ短調は深い悲しみを描くのによく使われますが、この曲もそのように始まります。バッハの無伴奏チェロ組曲の2番もニ短調で似た要素が聞き取れると思います。バッハの場合はそのまま最後まで行きますが、モーツァルトのこの曲はコロコロと表情が変わります。最後にはとても明るい長調の音楽になって終わります。この変化について行けないと感じるのももっともなことだと思いますが、このように感情がめまぐるしく変わっていくことも、とても自然な人間の心理だと思います。このような作品はバッハには書けないものです。どんなに辛いことがあってもお腹はすくし、そこでおいしいものを食べたらおいしいと感じますし、そんなときに隣に寄り添ってくれる人が一人いるだけで、とても幸せに感じます。モーツァルトの音楽は、時折常識の枷から解放してくれる自由を運んできてくれます。
カテゴリー一覧