私が今音楽に携わっている一番の理由はおそらく「自由」のためではないかと思います。そしておそらくあらゆる芸術は、美術も文学も音楽も、その他様々な芸術は常に自由を求めているように思います。これには理由があります。芸術が作品に作られていく時には物事をよく見るという作業を避けては通れません。
例えば糸杉の木があるとします。それをちらっと見て絵にしても芸術にはなりません。テクニックを駆使して、本物のように描けたとしてもそれは芸術ではありません。例えばゴッホが糸杉を見ると、糸杉に自分自身が映り、糸杉は冷たいまま燃え上がっていきます。燃え上がりながらゆがんでいきます。冷たく燃え上がるので永遠に燃え続けます。熱く燃えていったらどこかで燃え尽き、その後には新しい風景が広がってくるかもしれません。しかし、ゴッホのそれはあくまでも冷たいのです。これを絵の形に反映すると芸術になっていきます。当然糸杉は燃えていないという常識があります。その常識の中で糸杉を見ていたら、どれだけ時間をかけてみてもゴッホの絵は完成しません。その常識から自由になって初めて芸術になっていくのです。私にも時折糸杉は燃えて見えます。おそらくゴッホを知っているからでしょうが、ゴッホが常識の壁を壊して、私に自由をくれたとも言えます。そしてゴッホ自身も、自分の中にあるあらゆる感情と現実のずれを糸杉に込めることにより、大きく救われていったのだと思います。
歴史を見ると自由を求めての戦いが何度も起きています。市民革命などもその一つです。革命を通して少しずつ自由を勝ち取っていったのですが、そこにはたくさんの血が流れました。自由を手に入れるだけのために命がけで戦わなければならないのが不思議で仕方ないのですが、現実です。香港で今起こっている戦いも革命ですが、なんとか血を流さず自由を勝ち取っていってほしいと願っています。
そして現代の日本は、自由ではないとは子供の頃は思っていませんでした。しかし、何かしら窮屈な、自分の居場所はここではないような、本当に自分で感じているものはひた隠しにしなければならないような、様々なゆがみを感じない時はありませんでした。実質的に自由を奪われているわけではありませんが、芸術作品だけではなく、様々なものに触れることから徐々に自由を獲得しているのが私の人生のようにも思えます。
自由はただただ素敵なものというだけではありません。人生の中で初めて大きく自由に変化する時期が思春期です。今まで自由と引き換えに縛っていた(守っていた)ものがなくなる分、目が回ってしまうような不安が襲ってきます。この不安も含めて、先入観や常識から自由になり物事を見ていくことが芸術的なものを作っていくように思います。
カテゴリー一覧