演奏者にとって、正しい解釈を求める姿勢は無くてはならないものです。好きなように演奏すれば良いというものではありません。しかし、これについていくつか考えるべきことがあるように思いますので、少し書いてみます。
1)正しい解釈は時代とともに更新されていきます。一番多いのは新しい資料が見つかることです。それを通して解釈が変わることがよくあります。手書きの楽譜が発見されたり、作曲家の書き込みの楽譜があったり、昔の楽器の再生が行われたり、いろいろなことがあるのですが、これを通して今まで常識とされていたものが考え直され、新しいスタイルの演奏が主流になっていきます。
2)新しい解釈を知るには何らかのきっかけが必要です。先生から教えてもらったり、誰かの演奏から知ったり、本やネットから情報を得たり等が考えられます。しかし、科学の論文のように世界中にすぐに発信されるものではないので、それを求めようとする意思がしっかりないと難しいところもあります。
3)演奏家として舞台に出ていくまでにはとても有名な先生に習うことがほとんどです。そこではその時点での最適だと思われる音楽解釈を習うのですが、その影響はとても強いものです。その後出てきた新しい解釈を受け入れるのは難しいこともあります。
4)指導者もそこに至るまでは有名な先生に習ってきています。同じことですが、その影響が強ければ強いほど、違う解釈を受け入れるのは難しいものです。そうすると長い間古い解釈のままレッスンしてしまいます。そしてその教え子がまたそのままレッスンしていくと、数十年前の解釈のままレッスンは進んでしまいます。
5)それでも新しい解釈が説得力の強いものだったら、徐々に広がっていきます。そのうち新しい解釈が常識になって、それを取り入れないと古くさい演奏だと見なされたり、勉強不足だと思われてしまいます。
6)ここで問題が出てきます。新しい解釈が絶対に必要なのだとしたら、古い演奏はそれだけで取るに足らないものになってしまいます。骨董品のような価値はあるにしても、参考にするものでは無いと言うことになってしまいます。
7)逆に古い演奏も価値の高いものだとすると、新しい解釈を求める必要はあるのだろうか?
実際、新しい解釈が市民権を得るまでにはある程度の時間が必要になります。しかし、一旦広がってしまうと、新しい解釈の方へ行きすぎてしまうといった現象が起こります。その後揺れ戻しのように、行き過ぎた新しい解釈は修正され、新しい形が出来、落ち着いていきます。
例えば古い楽器が再生されます。そうするとその当時の音に近いものが再現されていきます。すると現代の楽器に比べて、音量があまりなく、長く音を保てずにすぐ切れてしまう楽器が多かったことが再認識されます。すると大人数で演奏されていたものが、少人数になり、全体的にテンポが速くなり、フレーズが細かくなります。このように再現された古楽の演奏を聴けることは、演奏の可能性を広げてくれます。
ここで行き過ぎが始まります。古楽の演奏は通常よりも速いテンポで、短いフレーズにしなくてはならない。ピアノの演奏はチェンバロのように基本ノンレガートであるべきであるといった感じです。そして現代の楽器で演奏するときでもこの基本に則って演奏すべきだと言うことになっていきます。
このことをどう扱っていったら良いかに関しては長くなってしまいますので、割愛しますが、新しい発見は常になされますし、個人でも楽譜をよく見ていくことで、今までに無かった新しい演奏を思いつくこともあります。それは常に良いことだとも、簡単に取り入れるべきではないともいえません。
色々と考えていくとどうすべきなのか迷ってしまいますが、今まで知らなかった演奏法が見つかると言うことは、可能性が増えたと考えると良いように思います。いろいろな可能性から今自分にとって一番良いと思うスタイルを選べるようになったと言うことだとも考えられます。
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