もし人前で本の朗読をしなくてはならないとしたら、できるだけ内容が分かるように読むことが一番先にあり、気持ちを込めるのはその次になるかと思います。ですので、準備の時間があれば、まずは自分で内容を理解し、漢字の読みなどの確認、ひらがなの多い文章だったら言葉の切れ目はどこかなど、とにかく内容が分かりやすく伝えられるような用意をすることになります。しかし、音楽の表現に関しては気持ちを込めて歌うというのが真っ先に来て、わかりやすくということが重視されないこともあるようです。
良い声楽家は初見やそれに近い状態でとても音楽的な演奏をします。そのくらいではとても慣れた言語でない限り言葉の意味を理解しながら歌うことは不可能です。日本歌曲であっても、少しわかりにくい詩や古い言い回しがあると、しっかり全体を把握することは出来ません。しかし、それでもとても音楽的な演奏になります。これがわかりやすく演奏することの重要さとつながってきます。
コンサートで知っている曲は楽しめたのに、知らない曲はあまり楽しめなかったという経験はないでしょうか?子供が何度も読んだことのある本をまた読んでと催促することもあります。その話はもう知っているから新しい本を読んで、と催促することよりも多いのではないでしょうか?さらによく古典派の音楽を聴いている人がたまに現代音楽を聴いてもあまり良い印象を持たないこともあります。これは現代音楽が難解だというわけではなく、逆に現代音楽ばかり聴いている人が、たまにロマン派の音楽を聴いても同じことが起こります。慣れ親しんだ音楽に近いものは自分にとって楽しみやすい音楽で、慣れ親しんでいないものは楽しめなくなることも多々あるようです。分かるということはとても重要なのです。とても素晴らしい作品でも演奏でも、よく分からないものは心に響いてこないものです。
どんなに素晴らしい作品でも演奏でも、分からないものには興味がわきにくいものです。偉い人たちが素晴らしいというのだからきっと素晴らしいものなんだろう。(自分には関係ないけれど) といった見方になってしまいます。確かに優れた作品が難解になっていく傾向はありますが、わかりにくくしようとしているのではなく、作曲家は無駄な音を極力省いて、わかりやすくシンプルにしたいと思うのですが、それでも分かりにくくなってしまうものなのです。それを演奏者はできるだけわかりやすく伝える必要があります。わかりやすい演奏は何かについては次回書いていきます。
そもそも音楽に限らず優れた芸術作品は難しいものが多くなってしまうのはなぜでしょうか?
たとえば夢を持とう、信じていれば夢はいつか叶うといった歌を作るとおそらくわかりやすい曲が出来ます。たくさんの人が良い曲だと思ってくれるかもしれませんが、これが真実ではないことぐらい小さな子供でも分かることです。サッカーチームに入っていてレギュラーになりたいという夢があるとします。しかしそこに向かって一生懸命努力もしたとしても、一度もレギュラーになれない子もいます。同じ子がサッカーではなく、将棋をやったらすごい力を発揮できたかもしれません。そうすると歌は、自分に合ったほどよい夢を持とうとなり、あまり音楽にはなりにくい。夢を持つことは今の自分に満足せずに違うものになっていこうとすることですが、それがなかなか上手くいかないことなど子供の頃から何度も経験していきますし、たとえ実現したとしても自分が夢見ていたものとはほど遠いものだったことも経験していきます。
そうすると新しい別の曲、変わっていかなくてもいいんだといった内容の曲が必要になります。そのままの自分でいればいい、今のあなたはそのままで素敵なのだといった内容になります。このような曲もたくさんありますが、これは先ほどの夢に向かって頑張っていくこととは反対のことです。何もしていないのに、自分には本当は高い能力がある、それなのにそれを認めてもらえないといったジレンマに苦しむことにもなってしまうかもしれません。
「夢を持とう」も「そのままの自分で」というのもどちらも不完全ですが、否定されるものでもありません。結局はこの2つの中でバランスを取りながらみんな生きていることになります。それでこれらが芸術作品のテーマになることはないのです。
例えばベートーヴェンの第9を見てみます。混沌から始まり、4楽章で歓喜の歌を歌うことになります。混沌の世界はものすごいエネルギーを含み、とても恐怖を感じる世界です。それと戦いながらもがいていったり、そこからワクワクするものが見つかったり、美しいものが出てきたりしますが、最終的に「歓喜」に代表される世界にたどり着きます。それは自由なのか、平等なのか、平和なのかもっと違うものなのかは分かりませんが、とにかくそういった過程を音楽とともに体験していくことになります。人生の教訓があるわけでも、応援してもらうわけでもありません。混沌とした世界でもがきながら生きてきたベートーヴェンを音楽を通して私たちが体験できるのです。
小品であっても同じです。例えば山田耕筰の「からたちの花」では、からたちの花を見て昔が思い出される。これをきっかけに時間と空間を超えて子供時代と現在、生まれたところと今生きている場所が交錯していきます。詩は北原白秋なので、実際のからたちの記憶があるのは北原白秋で、おそらく山田耕筰には同じからたちの記憶はないでしょうが、想像の中で体験をしていきます。この曲を聴くことで、私たちも実際には思い出のないからたちの仮の記憶を持ち現代と過去をオーバーラップすることで、時間と空間の壁を越えた見方を体験することになります。単に昔を懐かしんでいるだけのものではありません。
誰かと話をしているとします。その時に今発せられた言葉だけを感じるのと、その人の人生も加えて感じるのとでは全く違う印象になることもあります。「人間は馬鹿だ」という一言があったとして、人間の愚かさをいったのかもしれないし、大きな愛情があったのかもしれないし、宿命のようなものかもしれない、自分自身を指したのかもしれないし、特定の人たちを指したのかもしれない。しかしその人をよく知っていると真意が分かることもあります。
小品であり、からたちだけしか見ていないのですが、それから広い世界の、長い時間の中で感じられるような根源的なものが浮かび上がってくるようにも思えます。この作品にも教訓などないし、励ましてくれるものでもありません。せっかくなのでこの曲を少し追ってみます。
1からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
おそらく今、目の前に咲いているからたちの花だと思いますが、もうすでに過去を思い出していることが音楽から感じられます。その後の明らかに過去を歌っている音楽と同じ色合いだからです。
2からたちのとげは痛いよ。
青い青い針のとげだよ。
おそらく今、からたちを見ているのは大人になった自分でしょう。ここで初めてからたちのとげを触ってみたということではないでしょうから、子供の頃の記憶が優位を占めてきているところです。記憶は痛みから始まってきました。
3からたちは畑の垣根よ。
いつもいつも通る道だよ。
まだ現在形で書かれていますが、おそらく子供の頃の記憶です。最初の音の跳躍が6度(レシ)だったのが、1オクターブに広がります。元気に遊び回っている子供の様子が伝わってきます。
4からたちも秋は実るよ。
まろいまろい金のたまだよ。
子供の頃からたちで一番印象に残ったのはとげ以外には花と実でしょう。そのもう一つの実が登場します。始まりは一番狭い5度(レラ)になります。色々とイメージできますが、限定する必要もないと思います。新しい命に対する神聖な感じも多少あるようにも思います。
5からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
初めて過去形になります。もちろんつらい思い出ではなく、つらい時にそばで見守ってくれていた優しさが描かれています。
6からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
最初の詩の繰り返しは元々あったのかどうか分かりませんが、山田耕筰は繰り返しています。ここではもう今見ているからたちなのか、昔見たからたちなのかは全く分かりません。おそらくそれはどうでも良いのです。今か昔かにはっきりと区別をする必要があるのなら、少なくとも3番では過去形でなければならないところですが、過去に感じたからたちもそれを今思い出しているので、過去だけのものではないのです。この曲を通してどこで現在と過去が入れ替わったのか分からないように、全体を通して同じトーンが流れています。しかし、その中でひとつひとつの事柄が、繊細に移り変わっていきます。この曲の最高音(高いソの音)は最初から使われ、さらに6番までのすべてで出てきます。どこかがとりわけ強いイメージということもなく、物語が進行してピークに向かうでも無く、淡々と進んでいきます。
わかりやすく演奏することについて書こうと思ったのですが、音楽は何を表現しているのかの話になってしましました。わかりやすい演奏については次回書きます。
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