テノールのエンリーコ・カルーゾが発声についての質問を受けた時に「うなじで歌う」というような発言をしたという話が残っているようです。これはたまたま質問を受けた時にカルーゾがうなじを気にして練習していたというだけであって、ずっとうなじを意識しながら歌っていたとか、カルーゾの声はうなじで歌うことで作られているとか考えるのもではありません。また、他の歌手にとってもうなじはとても大切ですので、カルーゾ特有のものでもありません。
それにしてもうなじで歌うということはどういうことなのかは考える必要があります。今回はうなじで歌う感覚がどのように発声に関係しているのかを考えてみます。フースラーのアンザッツではうなじの「あたり」は6番になります。うなじというとやや広い範囲が考えられますが、6番のアンザッツはピンポイントです。
この図は少し上を向いた時の筋肉の様子を左斜め前から描いたものです。左下が肋骨で、左上が上を向いた時のあご、右側がうなじの方向です。うなじのところに輪状咽頭筋がつながっていることが分かります。声帯のある甲状軟骨の下にある骨が輪状軟骨ですが、輪状軟骨がこの輪状咽頭筋により食道に固定されています。この固定されている場所は下を向いたまま、背骨を頭から下(背中に向けて)に触っていった時に最初に大きく飛び出した骨の付近です。発声でうなじの話が出てきたら、この1点のみを考えますので、しっかり把握しておいてください。
フースラーのアンザッツ(あたり)の発声での実践~発声のしくみ59
声を出す時の声帯の状態で必要なことが2つあります。1つは声帯がある程度引き伸ばされていること、これは発声で喉を開けるというように言われていることと同じです。もう1つは声門閉鎖です。声帯が閉じていることです。この声門閉鎖が少しややこしいですが、大切なことですので、しっかりと理解しておいてください。まず声門閉鎖には2つの方向があります。最初に書いた声帯を引き伸ばすことはある程度働くと声になりますし、伸展が弱くても全く声が出ないことはありません。しかし声門閉鎖が出来ないと全く声帯は振動しませんので、声が無くなってしまいます。しっかりと声帯を閉じると声量が増します。これは声帯の周りにある声帯筋が強く収縮することでつくられます。大きな声を出そうとした時の筋肉の動きです。しかし、これとは逆にとても小さな声でしかし表情を持った声を出すことも出来ます。これは前に描いた声帯筋の働きはわずかで、別の方法で、声帯の閉鎖をさせるからです。声帯は前は常にくっついていて、後ろは開閉できるようになっています。呼吸をする時は開かなければならず、声を出す時には閉じていなければならないので、とても器用にこの開閉の筋肉を使っています。この声帯の後ろの閉鎖がうなじに関係します。声帯の後ろの閉鎖がきれいに出来ると、輪状咽頭筋に振動が伝わり、背骨にそれが伝わり、うなじで歌っているように感じられるというしくみです。
ちなみにどんな声でもこの後ろの声帯閉鎖は必ずしっかりと働かなければならず、声帯筋による声帯の真ん中の閉鎖は音量や音色により自在に変化させられることが必要になります。
輪ゴムを一カ所切って一本のゴムにします。その両端を両手で持ち、真ん中を固定された棒に引っかけて、ゴムを両手で引っ張ります。棒が声帯の前の部分、両方の手が声帯の後ろの部分です。両手のゴムをくっつけると声帯が伸びていてさらに閉鎖していることが分かります。これが弱音での声門閉鎖です。しかし、ゴムの中央は緩く接しているだけですので、強い閉鎖にはなりません。別の力でさらにゴムの中央を強く閉鎖させるのが声帯筋です。説明が難しいですが、理解していただけるでしょうか?難しいようであればご質問ください。
デクレッシェンドをしてだんだんと消えるような演奏をしたい時に上手くいかなければ、うなじで感じられる声門閉鎖に問題があることになります。さらに長いフレーズが歌えない時もうなじの問題は大きいものです。ただし、うなじだけ練習すれば良いというほど簡単でもないので、実際の練習は色々と考える必要がありますが、直接的にはうなじでの閉鎖に問題があるので、指導者は色々な練習を混ぜながら、うなじの音を聞くことになります。先ほど書いた背骨を頭から背中に向かって触っていった時に一番最初に出っ張った骨のところを触ります。そのままZ(ズー)と声を出すと触ったところに振動が感じられると思います。この振動が無くならないように声を出すことが出来ると、後ろの声門閉鎖が出来ていることになります。息が長く続きやすくなるし、チェンジの問題も少なくなり、また広い音域で声を出すことが出来るようになります。
これほど重要な場所ですが、レッスンの現場ではそれほど多くの時間をかけて練習することは稀です。お腹で歌うとか、響きを乗せるとか、前に声を感じるとかの方が圧倒的に多くの時間をかけられ、うなじに関しては全く触れられないことも多いものです。うなじだけを長く練習をすると慢性的に首の後ろが凝ってきたり、声帯の伸展が伴わなかったりの経験から、練習は二の次になっているのではないかと思います。他の練習も混ぜながら、時々うなじも観察するといった練習が必要になるかと思います。
小さな声を出す時のうなじの重要さを書きましたが、うなじの部分がしっかりと後ろに引き伸ばされた状態できれいに閉鎖が出来ると、声帯筋による声門閉鎖を強く入れても声は耐えていけますので、その人の最大限の重さのある声を出す時にもうなじは大切になります。この2種類のうなじでの声は分けて練習した方が良いでしょう。
再弱音を出す時の声帯筋はとても弱くしか働かないのに、声帯の後ろがしっかりと閉鎖されている状態が1つ、うなじの部分がしっかりと後ろに引かれた状態で閉鎖をし、これを保ったまま声帯筋が最大限に緊張する、強い閉鎖の音の2種類です。
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