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作曲家と演奏者

国語の問題

国語の試験問題を作者自身が解いたときに、あまり良い点数が取れなかったというのを何度か聞いたことがあります。色々と考えることが出来、面白いところです。作家がその文章について一番良く知っているはずなので、試験というものはたいして価値がないものだとも考えられるし、逆に作家が作品の構造を分からずに書いてしまっている等も。ただこのようなどちらかに非があるとか未熟であるといった見方はあまり面白くありません。作家は何度も何度も推敲を重ね余分なものを省き必要なものを言葉を尽くして表現しているし、出題者はその文章が出題に値するほど優れていることを見抜いて試験に取り上げているはずです。つまり双方が完璧な仕事をしながら、答えがずれるところに面白さがあると思います。具体的にどのような設問があり、作家がどのように間違えたのかは書かれていなかったので、はっきりとしたことは分かりませんが、全力で作品を作る人とそれを全力で解釈する人の中でずれが出てくるのはとても興味深いことです。たとえば作家は自分の体験を元にしたり、知り合いの体験だったり、全くの創造だったり、全くの創造だとしてもその元になっているものが何かについてはよく分かっています。出題者はそれに関しては分からない、文章から読み取れることのみで出題していきます。出題者は元になっているものを正しく分かっている必要はありません。文章のみと対峙すれば良いのです。例えばこのような違いから来るのかもしれません。

演奏者は解釈者

作曲家と演奏者の関係もこれに似たものがあるように思います。作曲家は自分の頭の中にあるものを楽譜の形にします。しかしこれでは音楽として完成だとは言えません。演奏者がそれを解釈し音にすることで完成します。ソルフェージュ能力の高い人は楽譜を見ただけでどんな音楽か分かりますが、しかしこれだけだとまだ音楽として完成しません。例えばベートーヴェンの第9交響曲の4楽章の有名なメロディーを想像してみます。おそらく簡単にできると思います。さてそれはバスの声だったのか、ソプラノだったのか、もしくはヴァイオリンの音だったのかと言われてもはっきりしないと思います。つまり具体的な音ではなく、音のイメージが頭の中で流れているのです。この段階ではまだ音楽は完成していないので、演奏者が必要になります。文学の場合は本を朗読されないと完成しないということはありません。本になった時点で完成です。これはほとんどの人が楽譜から音楽を読むことが出来ないから演奏が必要なのではありません。演奏者が音にして初めて音楽は完成するので、文学の場合は作品があったら、そのまま読者にそのイメージの解釈は委ねられていきますが、音楽は作曲家のイメージをまず演奏者が解釈して音にし、それを元に聴き手はさらに解釈していくことになります。

解釈のずれ

とても優れた作品を作曲家が作り、素晴らしい演奏者が音にし、細部までよく聞き取れる聴き手がそれを聞いたときにも、それぞれでずれが起こります。そしてこのずれはそれで良いし、だからこそ面白いのではないかと思います。作曲家が作品に対して何かを語ったとしても、聴き手はそのように聞かなければならないというわけではなく、さらに何か違ったものを感じたときに、もしかすると作曲家も気付いていなかったその作品のもっと深いものを感じ取れていた可能性すらあります。例えばベートーヴェンの「運命」は元々運命と副題が付けられていたわけではなく、最初のテーマについて質問されたときに、「運命はこのように戸を叩く」といったという逸話から来ているそうです。この運命はどう考えても悲劇的なものでしょうが、それが礼儀正しくノックして、「どなたかいらっしゃいますか?」「入っても良いでしょうか?」とやってくる必要はないです。そして運命だとすれば受け入れるか、目をつむってやり過ごすかになりそうですが、彼は必死に戦っているようにも思えます。

勝手な解釈

こうなると好きなように解釈してしまっても良いように思えるかもしれませんが、そうではありません。冒頭の国語の問題のように、出題者は作品を考え尽くして、こうでなければならないといったものを出題していきます。どちらにでも取れるといった段階で問題にして良いわけではありません。演奏者も考え尽くして、その結果たどり着いたものが大切なのだと思います。そしてそれが作曲家が考えたものとはずれがあったとしても、それで良いのだと思いますし、時を経て見方が変われば解釈も変わっていきますが、これもそれで良いように思いますし、このように変わっていくからこそ面白いと思います。