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新しい発見を邪魔する先入観について~レッスンで44

常識の功罪

 「常識」のようなものに守られて、私たちの生活は成り立っています。家を出る時にドアを閉めるとか鍵をかけるといったちょっとした行動も、常識に沿って行われます。もし常識が全くなければ、果たしてドアを閉めた方が良いのか、鍵をかけた方が良いのかなど常に考え続けなければならないか、そのようなことを全く考えずに、ある時はドアを閉め、ある時は閉めないと言ったことになってしまいます。

 常識などなくても、誰でもドアを閉めたり鍵をかけたりすると思うかもしれませんが、もう一つ違う例を挙げてみます。狭い道で人とすれ違う時に、お互い少し端に寄って道を譲り合うことによって問題なくすれ違うことが出来ます。しかし、会社の中で、社長と平社員がすれ違う時には、場合によっては社長は全く道を譲らず、平社員は立ち止まりできる限り道を空けることもあり得ます。(もちろんそうではない会社もたくさんあると思いますが)同じ人間なのに、社長は平社員より偉いといった常識が成立してしまえば、社長が通りやすいようにすることが当然になってしまいます。

 ここでは良い常識と悪い常識を分けて考えようとしているのではありません。常識があることにより、安全にスムーズな社会生活が成り立っていますので、善し悪しを考え続けなければならないと言うことはあっても、これがなくなってしまうととても不便なことになってしまいます。

地域による常識の違い

 日本のコロナ患者がなぜか欧米のように爆発的に増えていないことに何らかなファクターXがあるかもしれないと言われたりもします。正しいことは時間をかけて検証しないと分かりませんが、日本人はマスクを割と容易に受け入れられたことと、人と人の距離が常にある程度あることもその要因の一つにあるように思います。ドイツに旅行に行った時に飛行機がとても乾燥するので、いつもマスクを持って行くのですが、ある時に忘れてしまって、行きの飛行機で喉が乾燥して大変だったので、帰りのためにドイツの薬局でマスクを探したことがあります。数件回ったのですが、どこもないと言われ、私のドイツ語が変だったのだろうかとか色々考えたことがありました。結局後で分かったのですが、ドイツではマスクをする習慣がないので、通常の薬局では扱っていないということでした。このような常識のところで急にマスクを付けようと言われてもなかなか難しいものがあります。私たちが家の中で靴を履いて生活しなければならなくなるくらいに難しいことだったのかもしれません。また人との距離感も違います。私たちは相手を大切に思っている証としてあえて距離を取って、丁寧にお辞儀をしたりします。先ほどの会社の例でいくと、社長のそばに近づいていって、ハグしたりキスしたりしない、握手すらしないということです。しかし、欧米ではハグやキスは相手を大切に思うことと切り離せません。急に近づいてはいけないと言われたら、信頼関係を確認できなくなってしまいます。欧米人の「常識」がコロナに対して悪く影響してしまったということも大きかったのかもしれません。

常識は良い面がたくさんある。しかし・・・

 「常識」の悪い面を書きすぎましたが、相手の嫌がることはしないとか、喜んでくれることをしようとするのも常識なので、常識がプラスに働くことの方が圧倒的に多いと思います。しかし、この「常識」が無意識の壁になって新しい発見を拒んでいるのも間違いありません。「先入観」とも言われますが、例えば、高い音を出すことが発声では一番大切なことだとか、喉で歌ってはいけないとか、お腹で歌わなければならないとか、脱力がとても大切だとか、ベルカントが一番偉大な発声法だとか・・・・。実はレッスンで一番難しいと思うのが、この先入観から解放させることなのです。

喉声はだめだという先入観から来る弊害

 例えば喉で歌ってはいけないと思い込んでいると、基本的に声門閉鎖が悪くなっていきます。そのために息が続かなくなったり、音程が不安定になったりするので、なんとか閉鎖の強い音も出せるようにレッスンを進めていきます。やっと少し安定した響きが作れても、声門の閉鎖が感じられるため、どうしても悪い発声だと思ってしまい、(本人の表現では、きつい音になってしまった)すぐに戻ってしまいます。しっかり声門閉鎖された音をその人が受け入れるまでに結構時間がかかることもあります。どうしても閉鎖が難しい人だったのではなく、その人の先入観が閉鎖を拒み続けるのです。このときもしこの先入観から解放されれば、いつもより喉の緊張を感じたにせよ、それと同時に音のクリアな感じ、安定感、それを基に表現の可能性の広がりを感じられ、容易に新しい音を受け入れられたかもしれません。そしてこの新しい音の発見により、次のステップへの光が見えていくことになります。

強弱について

 音楽表現において、強弱をしっかり付けるべきだというのも、強弱に頼りすぎてはいけないというのもどちらも正しいと思います。強弱だけの変化ですべて表現しようとすると、どうしても単調な表現になってしまい、面白みがなくなっていきます。しかし、楽譜に書いてある表情記号は圧倒的に強弱記号が多いです。強弱がどれだけ大切なのかが分かります。先入観は強弱を付けられない人により大きく邪魔をしていきます。フォルテとピアノを歌い分けるということはとても対照的な発声を受け入れることになりますが、違う声を出すことを受け入れられないと、強弱はごくわずかになってしまい、常に表情が足りなくなります。恥ずかしがってどの台詞も同じようにしゃべってしまう学芸会の演技のようになってしまいます。はっきりとフォルテとピアノを歌うことによって、知識として知っていた強弱を新しく発見することになります。このことが音楽をどんどん深い理解に導いてくれるきっかけになっていくのです。

発見の繰り返しと先入観からの解放

 音楽表現というととても難しい精神論のようにも感じられるかもしれませんが、導音を強くすることで主音に解決した感覚を実感とともに新発見すること。高い音を今までよりもはっきり強く演奏することにより、音の高さが持つ緊張感を再発見すること。速い曲を早く、遅い曲を遅く演奏することにより、テンポを再発見すること。テンポの揺れを感じることにより、自由な感情の揺れを発見すること。逆に全く揺れない厳格に進むテンポにより、残酷な時の流れを再発見すること。葬送行進曲は厳格に一定のテンポで進んでいきます。これは亡くなった人を悼んでいるからだけではなく、死を目の前にして、自分の死が時の流れとともに早くもならず遅くもならず確実に一歩ずつ近づいてくるのを感じるからです。行進曲なのだから一定のテンポが必要だという先入観からは分からないことです。葬列は死者を棺に入れてお墓に運んでいく参列者の列のことですが、軍隊の行進のように一定のテンポで歩くなどあり得ません。悲しみで途中うずくまってしまう人もいるでしょう。距離が長ければ休憩で立ち止まることもあるでしょう。高齢者はどうしても遅れてしまうこともあるでしょう。決して描写などではないのですが、先入観が邪魔をすると、時の流れの残酷さを感じることは出来ないかもしれません。「常識」は日常生活を円滑にするのにとても有効ですが、新しい発見を邪魔する一番大きな要因でもあります。

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