有名な先生は必ずしも良い先生とはいえないのは、どの分野でも同じことだと思います。しかし、今回は音楽的に優れていて、さらに人間的にも優れている先生についての話です。そのような先生に巡り会えるのはとても幸運なことで、運良く通えるところに住んでいらっしゃったら、レッスンに通うことも出来ますが、海外に住んでいらっしゃったりすると、たまに来日される時や、海外まで勉強に行ける時に習いに行ったり、いろいろと苦労しながらも先生から何かを得ようと勉強を続けることになります。
盲信という言葉がありますが、先生を崇拝しすぎると自分で考えなくなってしまうことがあります。どんなに信頼している先生であっても、すべてを正しく言葉に出来るわけではありませんので、常にその真意を考えなくてはなりません。これは先生を疑うということではなく、より深く理解することにつながることです。
あるピアニストが、発表会で小学生がベートーヴェンを弾いたのを聴いた時に、ベートーヴェンを弾くのはもっと覚悟を持って、テクニックも音楽も完成させてからでないといけない。とおっしゃっていたのを聞いたことがあります。しかしそうなると小学生はほとんどベートーヴェンを弾いてはいけないとなるでしょうし、なぜベートーヴェン限定なのか?モーツァルトは良いのか?バッハはどうかといろいろと疑問が出てきます。小学生であっても弾けるのであればベートーヴェンも弾くべきです。当然未完成な演奏になるでしょうが、それでも演奏を通してベートーヴェンと対話をする機会を奪ってはいけないと思います。
ここからは想像するしかないのですが、例えばそのピアニストが大学生の頃、結構難しい曲も弾けるようになり、ベートーヴェンの晩年のピアノソナタに取り組んでいるとします。平行して、ラフマニノフやスクリャービンなどのとてもテクニカルな曲も勉強していたとします。そうするとどうしてもベートーヴェンの練習に割ける時間が少なくなって、そのまま著名な先生のところへレッスンに行くことになったとします。当然先生は演奏を一度聴いただけでこの現状をすぐに理解します。圧倒的にベートーヴェンに向き合っている時間が少ないと感じるわけです。そこで先生が「ベートーヴェンを演奏するということはそれ相応な覚悟を持って取り組む必要があるのです。中途半端な状態で本番にかけるものではありません」ととても丁寧に大切なことを教えてくださることになります。この言葉を受けて、ラフマニノフに比べるとベートーヴェンの方がテクニック的には簡単だけれども、もっとベートーヴェンの音楽にしっかり向き合う必要があったと思い、次のステップに向けて練習をしていくのが普通ですが、ここで解釈がゆがむことがあります。この言葉だけが一人歩きしてしまうと、晩年のピアノソナタに取り組んでいる時の話だったのに、初期のピアノ曲も含めてベートーヴェンを演奏するということは特別なことである。さらに、コンクールで賞をとれるくらいの力のある子で無い限り、子供がベートーヴェンを取り上げるべきではないとなってしまうと、大きくゆがんでしまうことになります。実際はどうかは分かりません。たまたまそのピアニストがその小学生のベートーヴェンの演奏が気に入らず、深い意味も無く文句を言っただけかもしれません。しかし、このようなことはよくあるのです。盲信していると、先生の言葉は絶対なので、この状況の変なところを考えるゆとりはなく、ひたすらベートーヴェンだけ特別な作曲家になってしまうのです。
もう少し似たような例を挙げてみようと思うのですが、長くなりますので、次回に。
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