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小林秀雄「落葉松」について~声楽曲25

落葉松の詩

 「落葉松」はとても良く演奏される曲です。とてもドラマチックで歌って楽しかったと思ったり、いつか歌ってみたいと思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。今回は詩と音楽の観点からこの曲を見てみます。

落葉松

落葉松の 秋の雨に
わたしの 手が濡れる

落葉松の 夜の雨に
わたしの 心が濡れる

落葉松の 陽のある雨に
わたしの 思い出が濡れる

落葉松の 小鳥の雨に
わたしの 乾いた眼が濡れる

詩・野上彰

詩の特徴

 「落葉松の」「わたしの」から始まる4つの節から出来ています。すべても節が2行とも同じ始まりですので、詩作から考えるととても危険性をはらんでいます。始まりだけではなく終わりも「雨に」「濡れる」が共通して、変化する部分はわずかです。これは単純すぎて、詩作品として成り立たない可能性があります。しかし、逆にどんどん変化する物語と違って、変わらないことを前提により深い世界を提示できる可能性もあります。さて具体的に詩を見てみます。

落葉松の 秋の雨に
わたしの 手が濡れる

 秋の雨、手が濡れると書かれています。この節だけで、多くに人が彼は涙を流していると思うものではないかと思います。雨が降ってきてもし傘を持っていなかったとしたら、まずは頭が濡れる、そして体が濡れることが気になるし、傘があったとしたら、松の葉が敷き詰められた林だと、足下が濡れることが気になります。手が濡れると感じるのは雨が降ってきたかどうかを確かめるときに手を差し出した時くらいですね。ですので、雨によって手が濡れたのではなく、雨の中涙を拭った手が濡れたのだと誰もが感じるでしょうから、直接涙という言葉を使わずに、涙を描いています。なかなか上手いですね。

落葉松の 夜の雨に
わたしの 心が濡れる

 夜の雨、こころが濡れるになります。夜は一番危うい時間です。当面やるべき事は終わって、後は寝るだけの時間にすぐに寝付けない心がざわつくようなことがあれば、それは日中よりも大きく増幅していきます。深い悲しみを持った人はこの時間だからこそ心の深いところから涙があふれる事になるでしょう。

落葉松の 陽のある雨に
わたしの 思い出が濡れる

 陽のある雨、思い出が濡れるになります。陽のある雨という言葉はこの詩以外で聞いたことがありません。狐の嫁入りと言われるような天気雨(空は晴れているのに雨が落ちてくる現象)ではなく、単に昼間の雨と考えた方が良いでしょう。天気雨だと不吉なことが起こる象徴になってしまいますが、そんな必要はありません。ただこれだけシンプルな繰り返しの多い詩で、夜の雨の次に昼の雨にしてしまったら、さすがに詩としてどうかということになると思います。彼の涙の原因は想像するしか出来ませんが、例えば大切な人を失ったとしたら、昼の明るさがある雨の日にその人との素敵な思い出が浮かんでくると言うことが想像できます。とても素敵な思い出でもそれは涙で濡れてしまいます。

落葉松の 小鳥の雨に
わたしの 乾いた眼が濡れる

 小鳥の雨、乾いた眼が濡れるに変わります。小鳥の雨という言葉もこの詩以外では聞いたことがありません。雨が強い最中小鳥の声が聞こえることはありませんが、もうすぐ止むとなると、まだ少し雨が降っていても小鳥の声が聞こえてきます。小鳥はもう雨の終わりを感じていて、次に向かって行動を開始します。乾いた眼が濡れるというのも詩的な表現ですが、容易に意味を想像することが出来ると思います。何度も何度も涙を流し、もう枯れ果てるほどに十分に悲しんだ後、小鳥が次に向かって活動を始めるように、彼も動き出さなくてはならないのでしょうが、それでもまた涙が出てきてしまいます。彼の悲しみの終焉に近い様子だと思われます。終焉は解決という事ではなく、受け入れられたという事だと思います。ここに至るまでにとても長い時間がかかる事もありますね。

詩全体を読んで

 とても悲しい出来事があったときに、その直後少し時間がたったとき、さらに長い時間がたったときとで詩は変わってきます。この詩のようにとてもしっかりとした形式があるものは時間がたったときの特徴でもあります。詩を良く見てみるとこれら4つの節はすべて別の日で、彼の悲しみの涙をとても冷静に、とても繊細に見つめているものだと言えると思います。ここで小林秀雄さんの曲を見ると、前奏から3連符の連打が続いてとても熱い感情が描かれていて、この感情はいつか大きく爆発するだろうという予感を感じせます。そしてこのまま陽のある雨のやさしい思い出に浸る部分で爆発し、さらにそろそろ終焉に向かうだろう小鳥の雨のシーンでピークを迎えるのはどうもずれがあります。日本における西洋音楽の歴史の進展に大きく携わってくださった大先輩ではありますが、この曲は詩を正しく反映させてはいないのだと思います。

詩と音楽

 作曲家は詩のすべてを理解して曲を書いていると思いがちですが、この曲にかかわらず色々な曲でずれが見つかります。解釈の間違いだけではなく、有節歌曲(1番、2番がある曲)では正しく解釈できていてもすべての詩にぴったり合うような作曲は出来ません。歌曲の歴史を見ていくと、有節歌曲は徐々に減っていき、通作歌曲(1番、2番がない曲)が増えていきますが、当然の流れだと言えます。だからといって、有節歌曲や詩の解釈に問題がある曲は演奏に値しないわけではありません。「落葉松」を聴いて感動したり、とても好きだと思う方も多いと思います。この曲が持っている魅力が伝わってきたのだと思います。

まとめ

 今回の話とは逆に、詩には表せていなかった、より深いものを音楽が表現していて、詩のみで表現されているものをもっと優れたものに変えてくれた曲もあります。どちらにしろ詩と音楽のずれは頻繁に見つけられます。ですので、より詩に注目するとき、より音楽に注目したときで演奏は変わってきます。最終的な表現は一つの正解にたどり着くのではなく、様々な正解があるという事なのでしょう。